昼は歯医者、夜はBar「Clove」(架空)の常連マシモの診療録。患者の口の中から見えてくる人生の物語(実話)を、毎回スパイスの香りと名曲ロックに関連付けてつづる連作エッセー。

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第四話 ある男の人生

 Bar「Clove」に入ると、間接照明のやわらかな光がカウンターを照らしていた。奥の棚にはいつものスパイスの瓶が並んでいる。クミン、カルダモン、ターメリック、クローブ。そして静かな夜の空気に、ロックバラードがゆっくりと溶けていく。スピーカーからはエアロスミスの「Dream On」が流れていた。穏やかな旋律から始まり、やがて大きく広がっていく夢を追う曲だ。夜のバーにはよく似合う。

 マシモが席に腰を下ろすと、マスターは何も言わずグラスに氷を落とした。カラン。その音を聞くと、マシモは今日の患者のことを思い出してしまう。

 中年の男性だった。何十年も歯医者に来ていなかったという。きっかけは、前歯が一本自然に抜けてしまったことだった。「見た目がちょっと気になるようになってきましてね」そう言って、少し照れくさそうに笑っていた。しかし口の中を見てみると、問題は前歯だけではなかった。むし歯に歯周病。口の中はかなり深刻な状態だった。

 歯医者を長くやっていると、口の中を見るだけで、その人がどんな時間を過ごしてきたのか、なんとなく想像がつくことがある。忙しくて歯医者に通う余裕がなかったのかもしれない。あるいは、何かつらい時期があったのかもしれない。壮絶な口腔内環境の向こうに、その人が歩いてきた人生の断片が見える。

 過ぎてしまった時間は戻らない。失ってしまった歯も、元には戻らない。けれど歯医者には、できることがある。口の中を整えることで、これからの人生を少しだけ豊かなものにしてあげること。それもまた、この仕事の役目だとマシモは考える。

 マスターがカウンターに小皿を置いた。クローブの香りがふわりと立つカレーだ。クローブは料理に深い香りを与えるスパイスだ。そして鎮痛作用を持つことでも知られている。今日の彼がこれまで抱えてきた痛みも、少しだけ軽くしてあげられたらいい。マシモはそう思いながら、カレーを口に運んだ。クローブの香りが、静かに広がる。明日もマシモは、患者の口の中にその人の人生を垣間見るのだろう。

 店にはスパイスの香りと壮大なロックバラードが漂い、今夜も静かに夜は更けていく。

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