
昼は歯医者、夜はBar「Clove」(架空)の常連マシモの診療録。患者の口の中から見えてくる人生の物語(実話)を、毎回スパイスの香りと名曲ロックに関連付けてつづる連作エッセー。
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第二話:柔らかいカレー
Bar「Clove」に入ると、カウンター奥の棚に小さなガラス瓶が並んでいる。クミン、カルダモン、ターメリック、クローブ。間接照明の下で、色とりどりの粉が静かに光っていた。スピーカーからはロックバラードが流れていた。モトリー・クルーの「Home Sweet Home」。どこか帰る場所を思わせる温かいロックバラードだ。
マスターは何も言わず、グラスに氷を落とす。カラン。その音を聞くと、マシモは今日の患者の顔を思い出してしまう。
八十歳のおじいちゃんだった。上下総入れ歯を作りたいと言って来院した患者だ。問診をしてみると、意外なことを言った。「いやぁ先生、今まで歯がなくてもそんなに困ってなかったんですよ」マシモは思わず聞き返した。「本当ですか?」「うん。なんでも食べてましたよ」それでも歯医者に来た理由があった。「孫に言われたんです。おじいちゃん、歯ないの?って」それで急に気になったらしい。何度か通院し、上下の総入れ歯が入った。
入れ歯の調整をしているとき、ふとカレーの話になった。「カレー作るのが好きなんですよ」聞けば家でよくスパイスカレーを作るという。マシモのクリニックに置いてあるレシピも読んでくれたらしい。「先生のレシピ、作りましたよ。でもビーフは硬くて食べられないから、チキンに変えました」確かに入れ歯では硬い肉は難しい。「でもね」おじいちゃんは少し身を乗り出して言った。「チキンの方が柔らかくて、味がよく染みるんですよ」その顔がとてもうれしそうだった。
歯医者をしていると、かむという当たり前のことの大切さを何度も考えさせられる。けれど人は、それぞれのやり方で食べる楽しみを見つけていくものらしい。
マスターがカウンターに小皿を置いた。カルダモンの香りが立ち上るカレーだ。カルダモンは料理の香りを整えるスパイスで、重くなりがちな味をふっと軽くしてくれる。硬いビーフをチキンに変えること。それもまた、食べる楽しみを軽やかにする一つの工夫なのかもしれない。カルダモンの香りが、静かに広がる。明日もマシモは、患者の口の中にその人の人生を垣間見るのだろう。
店にはスパイスの香りと温かなロックバラードが漂い、今夜も静かに夜は更けていく。


